難しすぎる映画「聲の形」netflix配信とか

前に延々書いた話なんだけど原稿がどっか行った…

もうネタバレしてもいい位では?という気がするので、その方向でいきます[1]

観客次第で内容が薄くなる

手話を理解する気がない人間にはなんにも面白くないと思います。と言っても高度なスキルが要求されるわけじゃなくて、映画を見ている間だけ「またね」「ありがとう」「さよなら」さえ分かれば十分なんですけど。

個人的には、そこはもうちょっと冒険してもよかったと思うんですよね。それなりに手話を予習していかないと半分以上わかんねーぞ!という構成が見たかったかな… まあ現実的には色々と、興行の都合なり、多数派様の御機嫌なり、そういうようなものがあるわけです (聾が主要モチーフなのに日本語字幕が付いてないとか)。

原作では、自殺直前の手話を1つのコマに切り出すことで「作中では気づかれないけど、読み返した読者は気づくことができる」という表現を入れています。ところが映画では、このシーンをあっさりと、なんだか綺麗な絵として過ぎ去ってしまうんですね。たとえ原作を読んでいても気がつく頃には終わっている勢いなので、シーンの印象がまるで別物になっています。

映画という巻き戻しが効かないメディアでそれをあえてやる、その表現が意図するところは想像するしかないわけですが、僕としては「結局オマエも気づかないじゃん」といった非難めいたものを感じました。なんとしても観客に気づかせるつもりなら「手話をクローズアップしてスロー再生」くらいはやれたわけですが、それをやらない。作品に、そしてキャラクターに丁寧に向き合っていなければ「綺麗なシーン」で消化されてしまう。難解なシーンとして論じられることすらなく、そういう表現を試みたことすら誰の記憶にも残らない。とんでもない改変であり、相当のこだわりがあって絵コンテを描いたのではないかと思います。

あれこそ、本作の秀美として一番に挙げるべき箇所です。まあすぐ自殺しちゃうんですけどね。

いじめっ子が許される話ではない

作品ラストの関係もあって「許された」「平和に恋をしている」と解釈する人が多いわけですが、僕はあんまりそういう風には考えられないんですよ。

「聲の形」というのは、もうとっくの昔に心を殺された人間が二人「なんとなく相手の求めていることをやっているだけ」の話だと理解しています。死んだ人間が生き返らないように、あの世界には (連載開始の時点からずっと) 救いはないんです。

これってイジメと同じではないか? 自分の理不尽な要求を押し付けて、相手を従わせているだけではないか? そういう自責の念や恐怖感から、あの二人は死ぬまで互いに逃れられない。そして互いに死ぬことも許されない。それは全然、赦しではないんです。ひたすら生き地獄でやっていくしかない。

それを隣で見ている我々は、せいぜいお人よしポーズを決める委員長キャラとして「よかった、感動した、頑張って生きて、死んじゃダメ」と呪いをかけ続けるしかない。それが形だけの偽善、何も解決しない嘘だと分かっていても、他の道はない。自分のためにそう発言するしかない。それは本心からの保身であり、しかし相手への愛なんですよね。ものすごく醜悪なものと純粋なものが同時にあって、嫌われたくなくて卑屈に取り繕っているだけでもあり、本心から相手のためにそう願ってもいる。

ある意味では、主人公二人の呪いと同じことなんです。弱さとエゴの塊で、主観的に見ても生きている価値がなく、死んじゃいたくなるような人間である。でも死なないで生きていく。この「聲の形」全体の呪いを代弁する、潘めぐみ演じる川井みきのシーンは本作二番目の見所ですね。僕はあれを見て初めて「確かにこの二人は似ている」と衝撃を受けました。本当に演技がすごかったので、記憶に残っています[2]

原作の川井は理解不能なキャラクターでしたが、映画化によって化けたと思います。キャラクターが変わったわけではなくて、読者にとって理解可能になったという感じ。

いい映画ですが

見る価値のある映画ですが、鑑賞する前に原作を読んだ方がいいと思います。ああいう映画を読み解くのが趣味で大好きという層でなければ、そっちの方がいいです。

そして劇中の手話をちゃんと覚えましょう。


  1. ネタバレで台無しになる作品も確かにありますが、逆に損をするどころか「話に聞いていたがコレはすごい」という体験ができておトクな作品もありますよね。例えば怒りのデスロードがネタバレのせいで楽しめなかったなんて話は聴いたことがない。そもそも本作は原作読者ありきなので、後者と言っていいように思います。 ↩︎

  2. 聾を扱う映画の凄みが声優の演技に依存しているということ自体、どうなのかという思いはあります。 ↩︎